ものかきブンちゃん

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「いい映画」と「悪い映画」には微妙な違いしかない──『あの頃、君を追いかけた』の台湾版と日本版

前の記事に引き続き、『あの頃、君を追いかけた』のことをもう少し書こうと思う。

台湾版と日本版、同じ物語なのに、なんで一つは感動できて、もう一つはいまいち気持ちが入っていかないのか、私が答えを知っているわけではないが、目についたことをちょっとだけ述べておく。

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出来栄えを「上中下」でいうのなら、台湾版は上の中、日本版は中の下、というところだろうか。違う言い方をすれば、台湾版は物語自体が持っている力を遥かに上回るような、カタルシス的なときめきが映画を生き物のように呼吸させているが、日本版は物語本来の良さも伝えきれておらず、ゴッホのひまわりを模倣して、本物のひまわりよりも見る価値のないものができてしまったような……(それは言い過ぎか)。

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(↑台湾版、左下に赤いポイントになる柱があり、右上に白い柱がバランスをとっている、整ったフレーミングになっている)

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(↑日本版、真ん中に座っているヒロインの頭から突き出ている塔をみるだけでも、模倣の雑さが伝わる。なんでそこに座らせたの?)

問題点が色々ある中、一番目立つのは「照明」であるが、それを語る前にいくつかの違いをあげておく。

タイトル

まず、中国語のタイトルは『那些年,我們一起追的女孩』。直訳すると、「あの頃、私たちが一緒に追いかけた女の子」。このタイトルはみんなの憧れの的、どんな学校でもいたはずの「あの子」の存在が強調されている。ヘンリージェイムズの『ある婦人の肖像』のように、憧れの「あの子」が普通に普通の人と結婚するという、なんとも言えない真実が秘められているのだが、「君を追いかけた」と言ってしまえば、主人公の視点に限られてしまって、こっちとしては「へえ、そうなんだ」としか言いようがない気がする。

表情

二つの映画の表情の見せ方の違いを、一つのシーンを比較することで見てみよう。これはキャストの演技の問題というよりは、明らかに演出の繊細さの違いだと見た方がいいだろう。

少女のしつこい指導を受け、テストの成績が驚くほど上がった少年が、堂々と先生からテスト用紙を受け取ろシーン。

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↑台湾版。先生が点数が読み上げるとき、先生は映さず、二人の緊張と喜びに集中して映している。

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↑日本版。先生が点数を読むところを(意味なく)見せ、少年の笑顔がチラッと見えるだけで、少女はほぼ無表情。

それから、少年が先生にバカなことを言うと、

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↑台湾版。「何を言っているの?」というように顔をしかめてから、自然に笑顔になってしまう。(そして、彼女に集中したままショットが続く)

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↑日本版。ほんの一瞬だけ、すでに笑顔になっている少女が映り、なぜか険しい表情の少年と入れ替わる。この演出の意図はなんだったのだろう?

そして、ここから二人の会話が始まる。

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↑台湾版。ちょっと勝ち誇ったような偉そうな顔から、笑顔になってからかう。

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↑日本版。なぜか無表情から、すぐに笑顔に変わる。

ここからが本当に大違い。

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↑台湾版。難しい顔、ドヤ顔、ニコッと笑顔、「つまらないね」の顔、「全然興味ない」の顔、実に様々な顔を使い分けて少年を好きなように揺さぶる少女。

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↑日本版。表情をほとんど変えることなく、正論の言葉だけで少年を黙らせる少女。

このシーンだけを見ても、どっちがもっと感情移入できる作品か一目瞭然のはず。日本版の主演の齋藤飛鳥は(どんな人間でもそうだが)もっと豊かな表情を持っているはずで、それを掘り下げてカメラで捉えるのが監督としての使命ではないだろうか。この女の子を追いかけずにはいられない理由を、出来事や展開ではなく、細かい表情で感じさせて欲しかった。

照明

すでに上のスクリーンショットで、照明の明らかな違いに気づいた人もいるだろうと思うが、ちょっとだけ例をあげて、青春映画の照明の大切さを考えてみようと思う。

最初は、一番わかりやすいショット。

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特に説明もいらないと思うが、台湾版では、右側のこめかみと鼻にに完璧にアクセントをつけて、顔は全体的に暗いけど、自然なグラデーションが印象を和らげている。顔の左側にもちゃんとリフレクターか何かでソフトな線を描いている。

日本版では、こめかみと鼻にアクセントはあるものの、なぜかそのアクセントの反対側の顔の方が明るい。その照明のバランスがひどく悪いせいで、顔の形が変に見えてしまう。

一つ細かいけど大事なポイントは、並んでいるペンの色。台湾版はおそらく揃っていた色をわざと動かしてバラバラにしたのだろう。いろんな色が混ざっている絵が撮りたかったのがわかる。日本版は、黒、青、赤が揃っていて、それも照明を当ててないから暗くて色が目に入らない。こういう細かいミスが映画全体の格を下げているのだ。

そして次、

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このショットで見て欲しいのは、台湾版の主人公の右側の頬っぺた。くっきりと輪郭が光っているのがわかるだろう。頬だけではなく、頭のてっぺん、ポニーテールのテールのところ、首、肩、全てが綺麗な光の線で縁取られている。

美しく見えなきゃいけないシーンなのに、あえて顔に正面からライトを当てず、逆光っぽいバックライトを生かしているのだ。その理由は、このシーンで初めて、彼女がポニーテールにして学校に現れて、男たちが見惚れてしまうという場面だからだ。髪を後ろに縛ることであらわになった顔の線を、最大に強調するための最善の選択であったのだ。友達は微妙にバックライトに背を向けて、顔に当たらないようにしているのもおそらく意図的で、主人公だけに注目を集めている。

日本版はどうだろう。色のない白いライトを真正面から浴びて、ハイライトすらなく、どこを見ればいいのかもわからない。顔より白い制服の方が目立ってしまっている。バックライトはそもそもない。(この映画を撮った人は、バックライトという技法を知らないのか、全くと言っていいほど使っていない)

両方の映画の背景に二つの緑の柱が見えるのと、全く同じデザインの制服を着ているところは、こだわりといえばこだわりかもしれないが、こだわるところを間違っている。日本版の少女たちの後ろにあるネットは何? ショット全体を暗くして、人物を浮かび上がらせるどころが、埋め込んでしまっているのではないか。台湾版の背景の大勢の生徒たちと、明るく光る地面、左前にぼんやりと据えている木の幹、これらがシネマとグラフィーの「こだわり」だったはずなのに、それは全部無視して、形だけ似せた三流模倣品になっている。

最後にもう一つ。

台湾版を見たとき、大好きだったシーン。なんなのかはわからないけど、なんか書いて火をつけて飛ばす奴を間に挟んで、少年が少女に告白する。

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まずは火をつける前に、なんでもない話をする。

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火をつけると、

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二人の顔がオレンジ色に優しく包まれ(本当に火で照らされているのではなく、照明である)、少年は少女に大好きだと告白する。使っているアイテムの特徴をうまく利用して、感情の変化を照明の色で表現した、素敵なシーンだ。

そしてこちらが日本版。

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火が最初からついている。

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火の明かりは見当たらず、最初から最後までおなじ色で、おなじアングルで、同じ表情。

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そして、台湾版はちゃんと中の火が見えるように、暗い時に撮っているのに対して、日本版は明るすぎて火が全く見えない。

全く同じロケーションで撮られたシーンだが、発揮している力が違いすぎる。もっと細かいことを言うと、橋の手摺りの色が、2011年公開の台湾版の時には白かったが、2018年公開の日本版の時は、ちょっと汚い鼠色になっていて、台湾版で二人の黒い上着が手摺りの白に強調されているに対し、日本版では二人の白いTシャツが汚い背景に埋もれている。ショットが同じだからいいってもんではないのに……

終わりに

この二つの映画を比べてみて分かったことは、映画は形だけにこだわっても、いいものにはならないということ。ほんの小さい、微妙な表情、照明、タイミング、音など、全てのディテールにこだわって、表現すべきことは何か、どうすれば伝わるのか、しっかり理解した上で作らないと、どれだけいい資材でも失敗してしまう。

こういうことを考えていると、また映画が作りたくなる。偉そうに語ったけど、自分で作ろうとすると全然できないんだろうな。映画の持つ表現力の深さを、この二つの作品で思い知らされた気がする。

『あの頃、君を追いかけた』を追いかけて

映画を観て、ああ、この物語は自分でも作ってみたい、自分の言葉で表現してみたい、と思うのはなかなかないことで、そうなったときには、きっとそこに強い「憧れ」があったからだと思う。

『あの頃、君を追いかけた』が見せてくれる馬鹿すぎて美しすぎる青春に魅せられて、そこにあった生と愛の、決して無駄でも卑屈でもない、大切な感傷を、自分の言葉で書いてみたいと思った。

だからこの記事は、映画のあらすじのようなものになる。前半のストーリーだけを書いておいたので、ネタバレは前半まで。

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この映画は二つのバージョンがあって、2011年に台湾で公開されたものと、2018年に日本で公開された日本版が存在する。出来栄えはともかく、二つの作品の根本的な物語は同じで、その表現によって結構違う印象になっている。だから、私自身も自分なりに表現してみたくなったというわけだ。

ここからが私の『あの頃、君を追いかけた』(前半のストーリーのみ)

(名前は全て新しくつけた)

 「花嫁を待たせる気かよ」と言われた僕は、既に出発する用意はできていた。少なくとも外側はできていた。心の中は、どうなのだろう。

10年前、私立高校二年生だった僕は、毎日友達とふざけてばかりいた。授業は先生の目を欺くステルスゲームで、武術系の部活は真の男になるための修行で、放課後は自由を無駄にしないために時間を無駄にする人権擁護の実行で、女の子たちは……高級時計の内部みたいに、原理も論理もわからないくせに、いつまでも「いいな」と見ていられる、そんなものだった。

僕には仲間が四人いて、特別取り柄はなくても、それぞれの個性だけは誰にも負けなかった。

まずは「あそこ」が敏感すぎていつも股間がテントになっていたユウキ。

永遠のデブキャラを幼稚園の頃から宿命として受け入れていたヒノッチ。

生まれながらのキザな言動がせっかくのルックスを台無しにしていたタッキー。

金持ちなのに芋っぽさを全身で醸し出していたカズ。

こんな僕らに唯一共通していたことといえば、五人全員、同じ女の子に恋をしていたということ。クラス一番の優等生で、顔の可愛さががレッサーパンダとちょうど同じだと言われていた朝倉七。

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もしかしたら、男子たちの間では、彼女が好きじゃなきゃおかしい、という暗黙のプレッシャーがあったのかもしれない。

実際のところ、朝倉はいつも上からものを教えるように喋って、人のやることにいちいち指摘するお節介やきで、僕のことを軽蔑の目でしか見なかった。

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僕の仲間たちはそれぞれ違う方法で彼女の目を引こうとした。しょうもないマジックで脅かしたり、彼女の家の前でブレイクダンスを踊ったり、なぜか前腕の長さを自慢しだしたり。方法のせいか人のせいかはわからないが、一度も成功したことがなかった。

そんなある日、ほんの些細なできことが、彼女が僕を見る目の色を、少しばかり変えた。

英語の時間に、彼女は珍しく教科書を忘れて慌てていた。ざまあみろ。人を馬鹿にした罰だ。確かにそう思ったはずだ。

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でも先生が教科書を忘れた人には授業を受けさせないと言い出した時、体が先に動き出し、自分の教科書を彼女に渡して、立ち上がった。

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まあ、僕は慣れていることだし、こんな恥ずかしい罰、彼女には似合わない。どう考えても僕が教科書を忘れてきたことにして置いた方が理にかなっているのだ。

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その時、一つ予想しなかったことが起きていたことを、僕は知らなかった。僕の教科書の中のバカバカしい落書きには、「英語の意味は全くわからないけど、朝倉七はかわいい」と何気なく書いておいたのもあって、それを本人に見られてしまったのだ。

彼女の本音は今でもわからない。でもその日から、彼女は僕の個人コーチみたいになって、勉強を手伝ってくれた。手伝ったっていうか、無理やり押し付けてきた。自分で作った数学のテストを家に持って帰らせたり、参考書にわざわざハイライトを入れて貸してくれたり、誰かが聞いたら僕に惚れてるんじゃないかというくらい、彼女は熱心だった。

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負けず嫌いな僕も、自分に内在する実力を見せてやろうと、課せられた課題を全てこなし、生まれて初めて勉強というものに取り組んだ。

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仲間たちが引いてしまうほど……

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今考えてみると、みんな、引いているのではなく、羨ましかったのかもしれない。

だんだんと勉強に自信が湧いてきたところで、僕は彼女に勝負を申し込んだ。彼女が「私は私よりバカな男には興味ない」と言ってきたので、「バカ? かわいそうだから勝たせてあげてるだけだって。俺が本気出したらやばいよ」って返したことをきっかけに、次のテストで負けた人が罰を受けることを提案した。

彼女が勝ったら、僕が丸坊主になる。

僕が勝ったら、彼女が一ヶ月間ポニーテールにする。

負けるはずがないと、彼女はすんなり勝負を受け入れ、おそらく僕の人生の中で一番楽しい勉強期間が始まった。知識を得るとか、将来に役立つとか、いい成績をとるとか、自慢するとか、そういうのはどうでもよかった。だた、彼女に勝って、ポニーテール……

しかしまあ、現実はそう甘くない。

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あっさりと負けてしまった。

成績がぐんと上がって先生や親に褒められても、負けたという悔しさしか頭になく、もうやめたろうかと投げ出してしまいそうになった。お遊びはこれで終わりだ。

しかし、そんな僕の目の前に現れたのは……

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それは悔しさなどを吹っ飛ばすだけでなく、胸と頭の中を空っぽにしてしまった。なんで勝負に勝ったはずの彼女がポニーテールで学校に来たのか、それはわからない。しかしその日からの僕は、いまだかつてない勢いで勉学に励んだ。

「好き」という言葉が、頭になかったと言うとウソになる。おそらくそこ言葉がくっきりと浮かび上がって、伝え合わずにはいられなくなる少し前に、あっという間の高校生活は終わりを迎え、僕たちは全員、それぞれの道を歩むことになった。

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彼女と僕は、まったく違う都市にあるまったく違う大学に行き、まったく違う学科に入ることになった。

彼女を大学に見送る駅のホームで、僕が彼女にプレゼントを渡した。

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自分で描いたリンゴのイラストに「You are the apple of my eye」という、いつか英語の教科書で見た言葉。

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彼女はそれを、どう受け取ったのだろうか。

その時、僕たちにとってとても大切な時間が終わり、また何かが始まろうとしていた。

それから10年がたった今、また何かが終わり、新しい何かが始まろうとしている。そんな中、いつまでも変わらないことがあるとするなら、サクッとかじり付いたときのリンゴの甘酸っぱい味のような、「あの子」への憧れ。僕はバカだから、いつまでたってもみんなの「あの子」を追いかけ続けた……

*ここまでが約半分の内容、続きが気になる方は本編をご覧あれ。

涙の流れ星──『僕らは奇跡でできている』を観て

このドラマを観て、自分の胸の奥の何かが変わった。そう思うのは、僕だけではないと思います。

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『僕らは奇跡でできている』

動物行動学の研究者で、大学の講師になったばかりの相河一輝(高橋一生)が主人公ですが、彼の幸せそうに自然や動物を眺める視線が、それだけで観る側も幸せにしてくれる、そんな作品です。

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最初は同じ研究者として、うらやましく思いました。自分が文学の研究をしている時に、あのように幸せそうな顔をしているのだろうか、そう自分に解いてみると、おそらく違うだろう、とすぐに答えが出ます。好きなことを好きだからやっているのに、なんで幸せじゃないんだろう、なんで楽しくないんだろう。

子どもみたいに喜んで動物のことを語る彼を見ながら、思わず顔がほころび、今からでもああなれるかな、などと思っていると、彼の周りの人も一人ずつ彼に影響され、自分のことを振り返るようになっていきました。特に歯医者の水本育実(榮倉奈々)は、自分に厳しすぎて、「やりたい」じゃなくて「やらなきゃいけない」に駆られて生きていることに徐々に気づいていきます。

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僕も何度か言われたことがあります。「あなたは自分に厳しいですね」って。当時はその意味もよくわからなかったし、変わろうとも思いませんでした。でもこのドラマを観て、あ、変わっちゃっていいんだ、自分に厳しい自分だけが本当の自分ってわけではないんだ、と気づかされました。

このドラマはぜひ見てもらいたいので、多くは語りたくありません。

ただ、僕にはいろんな感動を与えてくれました。泣き虫なので、たくさん涙も流しました。

そして、ペーパータオルで涙を拭いたら。

流れ星の形になりました。

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なんだか、とても嬉しかったです。

くだらないかもしれないけど、そのとき、奇跡だと思いました。

とても小さな奇跡が、実は身の回りにたくさんあって、それに気づくか気づかないか、たったそれだけのことで幸せと不幸せに別れてしまうのではないか。わかり切っていたはずのことですが、このドラマを観ると、そんな綺麗すぎる真実も、信じられそうになりました。

もしこの文章を最後まで読んでくれた方がいらっしゃれば、それもまた、僕にとっては、とても大切な奇跡に思われます。本当に本当に、ありがたいことです。:)

ドラマ『ブラック校則』Huluの方の素晴らしさ

日本の変な校則にちょっと興味が湧いて調べてたら『ブラック校則』というドラマに出会った。

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観初めてすぐに、セリフの弾みや人物たちの微妙な掛け合いに魅了され「これは一体誰が書いたんだ」と無性に気になって調べると、あ、なるほど、あの『セトウツミ』を書いた漫画家、此元和津也の脚本だった。

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『セトウツミ』の漫画は読んだことがないが、映画は観た。それも何も知らずに偶然見つけて観たもんだから、その衝撃は今でも覚えている。二人で座って喋ってるだけやん! 映画っていうか、漫才を見ているような感覚。でも最高に楽しい映画だった。

『ブラック校則』も二人の高校生が海辺に座って、延々と会話をしているのが基本的な設定で、物語は回想のような形式で見せられる。Sexy Zone佐藤勝利演じる小野田創楽、そしてKing&Princeの高橋海人演じる月岡中弥、この二人が繰り広げる会話の愉快さは、ちょっと観てもらわないと言葉で説明するのは難しい。

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日テレで放送された本編は、髪の毛の色、自転車通学禁止、アルバイト禁止など、様々な校則に触れながらも、重くならず軽快で愉快に生徒たちの思いを伝えていく。笑いながら軽い気持ちで観ながらも、校則ってなんだろうと考えさせられるところが、こういう問題性の曖昧な社会問題を扱うにはちょうどいい気がした。

好きだったところはたくさんあるけど、一つあげるとすると、労働者たちのラップ。三人の個性あふれる外国人労働者と一人の日本人労働者が、悩んでいる高校生たちにラップで打つけるど正論の社会批判や自己尊重の精神。七五調でしか喋らない生徒会長との掛け合いなどは鳥肌が立つほど鮮やかで、何度見ても飽きない。

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もちろん、この日テレの本編の七話もとても面白いのだが、このドラマに興味がある人に僕がお勧めしたいのは、むしろHuluの方で配信された四話だ。

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バックストーリーというか、メインの人物たちの感情に焦点を合わせて、海辺での会話と回想というギミックがない分、一つ一つのシーンに集中して人物の気持ちを汲み取れる。

特に心に刺さるのは、ハーフで地毛が茶色なのに、地毛証明書を出すか黒く染めるかしないと登校を認めてもらえない町田希央と、その母親との関係。

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これも観ないとわかりづらいが、学校で自分の自然な在り方を否定されて苦しんでいる娘と、自分が生んだ娘の生まれたままの姿を問題視されて、その娘の苦しみを見ていなければならない母親、その二人の間でどんな会話が生まれるのか。それはとても日常的な、しかしとても正直で真っ直ぐなことばかり。二人のなんてことない会話の力強さに、僕は何度も微笑みまじりのため息をついた。

小学校4年性の頃からカナダで教育を受けた僕は、当たり前だが、全員の髪の毛の色が違う学校に通った。高校(セカンダリースクールだったが)では服も自由だったし、座る席も自由、受ける授業も自由、生徒が運転してきた車のための駐車場もあったし、自分がどんな人間であって、どんな生き方をするかについて口出しされたことは一度もない。だから髪の毛の色を一つに制限するルールの発想が不思議でならない。

みんなが同じであることのメリットはいったい何? そしてなんで女子と男子の違いははっきり分けているの? そういう根本的な発想が、いいか悪いかは別にして、よくわからない。

カナダの学校では女子もほとんどがズボンを履いていた。そういう気分の日にはスカートを履くこともあるだろうが、ズボンの方が楽なのだろう。だから女子には男子にはない、スカートという特別な「選択肢」があっただけで、それを履くこと自体が「女子」のアイデェンティティになるわけではなかった気がする。なのに、日本では中高生の少女は(なぜ中高生の時だけなのかは不明だが)強制的にスカートをはかされる。誰かその理由を知っている人がいれば教えて欲しい。何故?

話が逸れてしまったが、『ブラック校則』というドラマは、特別校則がどうのこうの論じることはしない。ただ物語を楽しんで、自分なりに考えればいい。

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生徒会長の書き初めは「遵守」。この言葉の面白いところは、「守る」という言葉が入っているところ。ルールが人を守るのか、人がルールを守るのか、混乱させてしまうような言葉ではないだろうか。

学校は特別な場所だと思う。一つの国の全ての若者に、将来への予習として、何かを与え、何かを伝えることができる場所。そんな学校だからこそ、ルールなんかよりもっと守るべきものがあるのではないだろうか。生徒を守ってあげるだけではなく、生徒たち自身が自分を守る力を付けられるようにサポートすることが大事なのではないだろうか。

Huluの方の『ブラック校則』の微妙な心の動きが、僕にこんなことを思わせてくれた。

ニューヨークでのおうち時間と 『ERIKA IKUTA in NEW YORK』

お題「#おうち時間

ただいまコロナ中。おうち時間もこれで1ヶ月半になる。

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そもそも大学院生という職業(?)柄なので、家で本ばかり読んで過ごすのが普通といえば普通だが、1ヶ月半も狭いアパートにひとりぼっちというのはさすがに辛い。

本がなくて困ってるわけではないのだが……

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仕事ばっかりしていてもあれだし、研究に必要な本以外のものが欲しくて、アマゾンジャパンを利用して本を買うことにした。

その中の一冊が人生初めて購入した写真集、生田絵梨花の『インターミッション』。

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前からほしいなと思っていたし、こんな状況だから心の慰めにもなるだろうと思って買ったのだが、これだ驚くことに、意外な方法で僕の心を揺さぶり、なんと今まで歩んできた人生を考え直させた。

まず最初の驚きは、この写真集のロケーションがすべてニューヨークだったと言うこと。

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知らなかった……

ニューヨークにいるのに外には出られず、写真集の中のニューヨークを見る。それはとても不思議な感覚だ。

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この三年間すっかり見慣れてしまった街の風景がそこにあって、その中には不可思議なほど幸せそうに笑ういくちゃんがいて、なぜかその組み合わせがとても不似合いに感じられて、しばらく自分の記憶の中のニューヨークと写真集に写っているニューヨークを見比べていた。

そうしてページをめくっていると、何かがポロっと落ちてきた。

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朝食を食べる可愛らしい写真のポストカード。これを見た瞬間、「あぁ、そっか」と思った。自分がこの写真集を見ながら感じる違和感がなんなのか、ちょっとだけわかる気がした。

思い返した見ると、僕が見たニューヨークのほとんどの風景には、ある人物が入っていた。去年別れた彼女。

彼氏目線で撮られているこの写真集の様々な場面は、僕がすでに経験しているものが多かった。ただ、そこにいる人が違うだけ。

例えば上のポストカードの朝食屋さん。サラベスというとても有名な店で、彼女と行ったことがある。そして彼女もいくちゃんと全く同じくエッグベネディクトを食べた。確か写真があったはずだと思ってGoogleフォトのアーカイブを探してみると、写っている手の位置まで似ていて、すこしゾッとする。

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もう一度写真集をめくってみると、すっかり忘れかけていたいろんな風景が蘇ってきた。ハミルトンの劇場の前も、フィフスアベニューのロックフェラーセンターの前も、ブルックリンブリッジが見える有名なフォトスポットも、いつか僕と彼女が並んで歩いた場所ばかり。

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僕が彼女と一緒に見ていたニューヨークは、もしかしたらこの写真集のように明るくて、楽しくて、新しい発見に満ちていて、幸せで、美しかったのかもしれない。いつの間にか僕にとってこの街は、止むことのない雨に黒く湿った、見るだけで冷たいものになっていた。

そして今、僕が見ているニューヨークはこの部屋の壁の中以外存在しない。

忘れかけていた。僕は確かにもっと違う世界を見て生きていたはずだ。

この写真集が思い出させてくれたもう一つのこと。それはフィフスアベニューにあるティファニーの本店に行って彼女と二人で買ったカップルリングの存在。オードリーヘップバーン主演の『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany's, 1961)に出てくるあのお店だ。

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押入れの中に静かに錆びていた破られた約束の証。

お店の入り口の上にある時計(映画のスクリーンショットの一番上に半分だけ見えている)をモチーフにした指輪は、これからずっと流れていく時間の共有を意味していたはずだ。時間が経っていくことへの楽しみ、誰かと一緒に経験していくんだという期待、そんなものにあふれていた気持ちの、身に付けて離すことのない象徴であったはずだ。

しかし時間は止まってしまった。『恋はデジャ・ブ』(Groundhog Day, 1993)みたいに毎日同じ日が繰り返されるかのように、全く同じ風景、同じパターン、同じ時間が続く。

今は、この指輪の捨て方も、僕は知らない。

時間の流れの取り戻し方も、よくわからない。

 

しかし、写真集が僕に教えてくれたことが一つある。自分が見ている風景の中に、もし大好きな人が立っているのなら、そこで笑って、泣いて、生きているのなら、僕はその景色が美しいと思える。その場所が好きになれる。その場所にいる自分をも、好きになれる。

そんなに新しい発見ではないかもしれないけど、誰にも会えない今だからこそ、そんな大切な事実を忘れて生きていた自分が情けない。

この「おうち時間」が終わったら、カメラを持って街に出よう、出会いを大切にしよう、約束を大切にしよう、誰かと一緒に過ごせる時間を、そして一緒にいられる場所を、大切に、一生懸命に守ろう。

戦後日本を生きる──大島渚『無理心中 日本の夏』 (1967)

大島渚は難しい。そう思っていたのは私だけじゃないだろう。
昔、『儀式』という映画を観てから、なんとなく彼の映画は避けてきた。

でもなんだろう。今になって幾つか見てみると、なんてことはない、「芸術的」に見えるお遊びを「へぇ」くらいの気持ちで軽く流してしまえば、残るのはシンプルで面白い現実の描写ではないか。

そして気付いた。映画なんて自分が好き勝手に読めばいいんだ。大島映画を観たからって、自分が大島になろうとする必要はない。いっぱい思考の材料を投げつけてくれるのだから、それをこっちがうまく料理すればいい。

そんなことだから今日は大島渚の『無理心中 日本の夏』 (1967)について自分勝手な「読み」を綴ってみようと思う。

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最初に言っておくが、この映画の一番の見どころは、田村正和がめちゃくちゃ若くてかっこいい! というところ。演技がなんだかアメリカ風で、ハリソン・フォードにしか見えない。ちなみにハリソン・フォードは1942年生まれで、田村正和は1943年生まれ。一人はアメリカで、一人は日本で生まれたのだが、二人とも第二次世界大戦が終わる数年前に生まれた、大人気俳優である。この点の面白さは、最後まで読むと分かってくるかもしれないし、分からないかもしれない。

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ストーリーとしてのストーリーは正直どうでもいい。「無理心中」ってタイトルにある通り死と殺人への願望、そして情欲に駆られた人々の話だが、そない無理して心中せんでええんちゃう? っていうのがワタクシの素直な意見。

この映画の真の面白さは人物設定とその関係にある。それを分かってもらうために、最終決戦まで生き残る六人の人物をざっと並べておく。

十八歳の女。
四十歳くらいに見える男。
十七歳の少年。(田村正和
五十一歳の男。
テレビのおじさん。(この人の年齢は関係ない。テレビ、即ち情報メディアの象徴でしかない)
二十歳の外国人(白人)殺人鬼。

ここで大事なのは、この映画が公開された年、1967年という時期である。ようやく戦後生まれの若者たちが大人になってきた時期。十七歳なら1950年生まれ、十八なら1949年、二十なら1947年。言い換えると占領下生まれ。平和を知らない大人たちの下で平和を生きた若者たち。

そして五十一歳なら1916年、大正ど真ん中生まれ。わりと平和な子供時代を送ることができなのであろう。

四十くらいなら生まれは昭和元年かそこら辺、いわゆる十五年戦争の時に義務教育を受け、田村演じる十七歳の少年くらいの年には戦争に出ていたのかもしれない。それか戦争に出る前に戦争が終わってしまったのかもしれない。戦時中の世界しか生きたことのない人にとって、敗戦どういうものであったろう。

この人々はそれぞれ、1960年代後半の日本をどう感じているか。おそらくこの映画は、それを問いているのだと思う。この問いが現れているところを全てあげてはキリがないので、幾つか選んで紹介する。

一つ目。五人の日本人は、日本人をたくさん殺した白人スナイパーの居場所にたどり着いて、どうしてこんなことをしているのかと聞く。
「Why?」
白人青年はこう答える。

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「I’m twenty-years-old」
1947年生まれ。連合国軍占領期生まれ。国籍の定かでないこの「白人」は、たったそれだけの理由で日本人を殺す。その理由に対して、十七の少年、十八の女、五十一の男は快く受け止め、自分たちの年齢を英語でうち明かす。

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「Me eighteen」

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「Me seventeen

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「Me fifty-one」
このやりとりをどう読むかは、人それぞれだと思うが、私には、「戦後の理屈」というものを表しているように思える。「外国」と「日本」の力関係は、「敗戦後二十年目」という事実だけで成立する、とでも言っているようだ。

二つ目。六人は一緒に追ってくる日本の警察から逃げる。しかし、五十一歳の男はすでに殺されている。この下のショットを見て欲しい。

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五十一男の死体を大事に引っ張っていくのは四十男と外国人。役に立たなくなった股間を銃で打たれた)古い世代を、無駄に未来に引っ張っていくのは誰だ。過去を捨てきれぬ日本人と、何かの思惑を持つ外国人ではないか。そしてそいつらを守ろうとするのは、戦後日本の青小年。青少年を止めようとするのはテレビおじさん。

大日本帝国」という過去と「外国」という今に足を引っ張られる日本を、何も知らない若者は守ろうとし、テレビを中心とした情報メディアは真実に目を向けさせようとする。そんな風に、私には見える

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そして戦後女の第一世代である十八女は、「なんじゃコイツら」という顔で男たちを見つめる。

三つ目、最後に生き残るのは、十八女と四十男。

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ストレートに考えると、二人が心中する、ということだろう。しかし、この映画がいう心中は「無理心中」であり、心中させられるのは日本である。じゃあ、いったい誰が無理やり日本を心中させるのか。その答えは、テレビおじさんが死ぬ時に発する。自分をスナイパーライフルで撃った四十男を見上げ「お前か」と。

「戦時下の理論」を教え込まれて育った四十男は、ただ戦って勝つというシンプルな生の定義を敗戦と共に失い、今や日本を無理心中に追いやる大人になってしまった。お前か。お前だったのか。

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女の存在に対してあまり書かなかったが、最後にちょっとだけ触れておく。彼女の情欲、ジャズ熱、ファッションは、パンパン・ガールに象徴される戦後の日本人女の堕落そのものである。(彼女は白人青年にパンをあげるので、パンパン・ガールのイメージは意識的なものだろう)。しかし、敗戦後に生まれた十八女には、堕落の理由も意味も持たない。形だけが堕落であって、実は堕落でもなんでもない。ただ、そういうあり方しか分からいだけなのだ。戦いたいと思いながらも、その戦う相手すら見つけることができない情けない男に囲まれて、女は不満を叫び続けることしかできない。

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原爆で平らげられたような荒地の両脇にビルが建ち並び、真ん中にはテレビ塔がそびえている。ようやく戦後の春を乗り越え、夏に突入した日本の姿はこんなものだったのだろうか。それから情報産業を中心に風船のように膨らんで荒地を高層ビルで埋め尽くし、一気に破裂して秋に入る。その秋を生きる人々、すなわち我々は、今から訪れるはずの冬を、そろそろ恐れ始めなければならないのであろうか。

 

日本に行く前にブログ始めました

今年の夏頃(コロナの影響でいつになるかは不明だが)、日本に引っ越すことになっている大学院生です。今はニューヨークにいます。日本でいろんなものを書くことが夢なので、まずはブログから始めようと思いました。

よろしくお願いします!