ものかきブンちゃん

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戦後日本を生きる──大島渚『無理心中 日本の夏』 (1967)

大島渚は難しい。そう思っていたのは私だけじゃないだろう。
昔、『儀式』という映画を観てから、なんとなく彼の映画は避けてきた。

でもなんだろう。今になって幾つか見てみると、なんてことはない、「芸術的」に見えるお遊びを「へぇ」くらいの気持ちで軽く流してしまえば、残るのはシンプルで面白い現実の描写ではないか。

そして気付いた。映画なんて自分が好き勝手に読めばいいんだ。大島映画を観たからって、自分が大島になろうとする必要はない。いっぱい思考の材料を投げつけてくれるのだから、それをこっちがうまく料理すればいい。

そんなことだから今日は大島渚の『無理心中 日本の夏』 (1967)について自分勝手な「読み」を綴ってみようと思う。

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最初に言っておくが、この映画の一番の見どころは、田村正和がめちゃくちゃ若くてかっこいい! というところ。演技がなんだかアメリカ風で、ハリソン・フォードにしか見えない。ちなみにハリソン・フォードは1942年生まれで、田村正和は1943年生まれ。一人はアメリカで、一人は日本で生まれたのだが、二人とも第二次世界大戦が終わる数年前に生まれた、大人気俳優である。この点の面白さは、最後まで読むと分かってくるかもしれないし、分からないかもしれない。

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ストーリーとしてのストーリーは正直どうでもいい。「無理心中」ってタイトルにある通り死と殺人への願望、そして情欲に駆られた人々の話だが、そない無理して心中せんでええんちゃう? っていうのがワタクシの素直な意見。

この映画の真の面白さは人物設定とその関係にある。それを分かってもらうために、最終決戦まで生き残る六人の人物をざっと並べておく。

十八歳の女。
四十歳くらいに見える男。
十七歳の少年。(田村正和
五十一歳の男。
テレビのおじさん。(この人の年齢は関係ない。テレビ、即ち情報メディアの象徴でしかない)
二十歳の外国人(白人)殺人鬼。

ここで大事なのは、この映画が公開された年、1967年という時期である。ようやく戦後生まれの若者たちが大人になってきた時期。十七歳なら1950年生まれ、十八なら1949年、二十なら1947年。言い換えると占領下生まれ。平和を知らない大人たちの下で平和を生きた若者たち。

そして五十一歳なら1916年、大正ど真ん中生まれ。わりと平和な子供時代を送ることができなのであろう。

四十くらいなら生まれは昭和元年かそこら辺、いわゆる十五年戦争の時に義務教育を受け、田村演じる十七歳の少年くらいの年には戦争に出ていたのかもしれない。それか戦争に出る前に戦争が終わってしまったのかもしれない。戦時中の世界しか生きたことのない人にとって、敗戦どういうものであったろう。

この人々はそれぞれ、1960年代後半の日本をどう感じているか。おそらくこの映画は、それを問いているのだと思う。この問いが現れているところを全てあげてはキリがないので、幾つか選んで紹介する。

一つ目。五人の日本人は、日本人をたくさん殺した白人スナイパーの居場所にたどり着いて、どうしてこんなことをしているのかと聞く。
「Why?」
白人青年はこう答える。

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「I’m twenty-years-old」
1947年生まれ。連合国軍占領期生まれ。国籍の定かでないこの「白人」は、たったそれだけの理由で日本人を殺す。その理由に対して、十七の少年、十八の女、五十一の男は快く受け止め、自分たちの年齢を英語でうち明かす。

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「Me eighteen」

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「Me seventeen

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「Me fifty-one」
このやりとりをどう読むかは、人それぞれだと思うが、私には、「戦後の理屈」というものを表しているように思える。「外国」と「日本」の力関係は、「敗戦後二十年目」という事実だけで成立する、とでも言っているようだ。

二つ目。六人は一緒に追ってくる日本の警察から逃げる。しかし、五十一歳の男はすでに殺されている。この下のショットを見て欲しい。

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五十一男の死体を大事に引っ張っていくのは四十男と外国人。役に立たなくなった股間を銃で打たれた)古い世代を、無駄に未来に引っ張っていくのは誰だ。過去を捨てきれぬ日本人と、何かの思惑を持つ外国人ではないか。そしてそいつらを守ろうとするのは、戦後日本の青小年。青少年を止めようとするのはテレビおじさん。

大日本帝国」という過去と「外国」という今に足を引っ張られる日本を、何も知らない若者は守ろうとし、テレビを中心とした情報メディアは真実に目を向けさせようとする。そんな風に、私には見える

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そして戦後女の第一世代である十八女は、「なんじゃコイツら」という顔で男たちを見つめる。

三つ目、最後に生き残るのは、十八女と四十男。

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ストレートに考えると、二人が心中する、ということだろう。しかし、この映画がいう心中は「無理心中」であり、心中させられるのは日本である。じゃあ、いったい誰が無理やり日本を心中させるのか。その答えは、テレビおじさんが死ぬ時に発する。自分をスナイパーライフルで撃った四十男を見上げ「お前か」と。

「戦時下の理論」を教え込まれて育った四十男は、ただ戦って勝つというシンプルな生の定義を敗戦と共に失い、今や日本を無理心中に追いやる大人になってしまった。お前か。お前だったのか。

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女の存在に対してあまり書かなかったが、最後にちょっとだけ触れておく。彼女の情欲、ジャズ熱、ファッションは、パンパン・ガールに象徴される戦後の日本人女の堕落そのものである。(彼女は白人青年にパンをあげるので、パンパン・ガールのイメージは意識的なものだろう)。しかし、敗戦後に生まれた十八女には、堕落の理由も意味も持たない。形だけが堕落であって、実は堕落でもなんでもない。ただ、そういうあり方しか分からいだけなのだ。戦いたいと思いながらも、その戦う相手すら見つけることができない情けない男に囲まれて、女は不満を叫び続けることしかできない。

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原爆で平らげられたような荒地の両脇にビルが建ち並び、真ん中にはテレビ塔がそびえている。ようやく戦後の春を乗り越え、夏に突入した日本の姿はこんなものだったのだろうか。それから情報産業を中心に風船のように膨らんで荒地を高層ビルで埋め尽くし、一気に破裂して秋に入る。その秋を生きる人々、すなわち我々は、今から訪れるはずの冬を、そろそろ恐れ始めなければならないのであろうか。