ものかきブンちゃん

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「いい映画」と「悪い映画」には微妙な違いしかない──『あの頃、君を追いかけた』の台湾版と日本版

前の記事に引き続き、『あの頃、君を追いかけた』のことをもう少し書こうと思う。

台湾版と日本版、同じ物語なのに、なんで一つは感動できて、もう一つはいまいち気持ちが入っていかないのか、私が答えを知っているわけではないが、目についたことをちょっとだけ述べておく。

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出来栄えを「上中下」でいうのなら、台湾版は上の中、日本版は中の下、というところだろうか。違う言い方をすれば、台湾版は物語自体が持っている力を遥かに上回るような、カタルシス的なときめきが映画を生き物のように呼吸させているが、日本版は物語本来の良さも伝えきれておらず、ゴッホのひまわりを模倣して、本物のひまわりよりも見る価値のないものができてしまったような……(それは言い過ぎか)。

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(↑台湾版、左下に赤いポイントになる柱があり、右上に白い柱がバランスをとっている、整ったフレーミングになっている)

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(↑日本版、真ん中に座っているヒロインの頭から突き出ている塔をみるだけでも、模倣の雑さが伝わる。なんでそこに座らせたの?)

問題点が色々ある中、一番目立つのは「照明」であるが、それを語る前にいくつかの違いをあげておく。

タイトル

まず、中国語のタイトルは『那些年,我們一起追的女孩』。直訳すると、「あの頃、私たちが一緒に追いかけた女の子」。このタイトルはみんなの憧れの的、どんな学校でもいたはずの「あの子」の存在が強調されている。ヘンリージェイムズの『ある婦人の肖像』のように、憧れの「あの子」が普通に普通の人と結婚するという、なんとも言えない真実が秘められているのだが、「君を追いかけた」と言ってしまえば、主人公の視点に限られてしまって、こっちとしては「へえ、そうなんだ」としか言いようがない気がする。

表情

二つの映画の表情の見せ方の違いを、一つのシーンを比較することで見てみよう。これはキャストの演技の問題というよりは、明らかに演出の繊細さの違いだと見た方がいいだろう。

少女のしつこい指導を受け、テストの成績が驚くほど上がった少年が、堂々と先生からテスト用紙を受け取ろシーン。

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↑台湾版。先生が点数が読み上げるとき、先生は映さず、二人の緊張と喜びに集中して映している。

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↑日本版。先生が点数を読むところを(意味なく)見せ、少年の笑顔がチラッと見えるだけで、少女はほぼ無表情。

それから、少年が先生にバカなことを言うと、

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↑台湾版。「何を言っているの?」というように顔をしかめてから、自然に笑顔になってしまう。(そして、彼女に集中したままショットが続く)

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↑日本版。ほんの一瞬だけ、すでに笑顔になっている少女が映り、なぜか険しい表情の少年と入れ替わる。この演出の意図はなんだったのだろう?

そして、ここから二人の会話が始まる。

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↑台湾版。ちょっと勝ち誇ったような偉そうな顔から、笑顔になってからかう。

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↑日本版。なぜか無表情から、すぐに笑顔に変わる。

ここからが本当に大違い。

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↑台湾版。難しい顔、ドヤ顔、ニコッと笑顔、「つまらないね」の顔、「全然興味ない」の顔、実に様々な顔を使い分けて少年を好きなように揺さぶる少女。

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↑日本版。表情をほとんど変えることなく、正論の言葉だけで少年を黙らせる少女。

このシーンだけを見ても、どっちがもっと感情移入できる作品か一目瞭然のはず。日本版の主演の齋藤飛鳥は(どんな人間でもそうだが)もっと豊かな表情を持っているはずで、それを掘り下げてカメラで捉えるのが監督としての使命ではないだろうか。この女の子を追いかけずにはいられない理由を、出来事や展開ではなく、細かい表情で感じさせて欲しかった。

照明

すでに上のスクリーンショットで、照明の明らかな違いに気づいた人もいるだろうと思うが、ちょっとだけ例をあげて、青春映画の照明の大切さを考えてみようと思う。

最初は、一番わかりやすいショット。

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特に説明もいらないと思うが、台湾版では、右側のこめかみと鼻にに完璧にアクセントをつけて、顔は全体的に暗いけど、自然なグラデーションが印象を和らげている。顔の左側にもちゃんとリフレクターか何かでソフトな線を描いている。

日本版では、こめかみと鼻にアクセントはあるものの、なぜかそのアクセントの反対側の顔の方が明るい。その照明のバランスがひどく悪いせいで、顔の形が変に見えてしまう。

一つ細かいけど大事なポイントは、並んでいるペンの色。台湾版はおそらく揃っていた色をわざと動かしてバラバラにしたのだろう。いろんな色が混ざっている絵が撮りたかったのがわかる。日本版は、黒、青、赤が揃っていて、それも照明を当ててないから暗くて色が目に入らない。こういう細かいミスが映画全体の格を下げているのだ。

そして次、

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このショットで見て欲しいのは、台湾版の主人公の右側の頬っぺた。くっきりと輪郭が光っているのがわかるだろう。頬だけではなく、頭のてっぺん、ポニーテールのテールのところ、首、肩、全てが綺麗な光の線で縁取られている。

美しく見えなきゃいけないシーンなのに、あえて顔に正面からライトを当てず、逆光っぽいバックライトを生かしているのだ。その理由は、このシーンで初めて、彼女がポニーテールにして学校に現れて、男たちが見惚れてしまうという場面だからだ。髪を後ろに縛ることであらわになった顔の線を、最大に強調するための最善の選択であったのだ。友達は微妙にバックライトに背を向けて、顔に当たらないようにしているのもおそらく意図的で、主人公だけに注目を集めている。

日本版はどうだろう。色のない白いライトを真正面から浴びて、ハイライトすらなく、どこを見ればいいのかもわからない。顔より白い制服の方が目立ってしまっている。バックライトはそもそもない。(この映画を撮った人は、バックライトという技法を知らないのか、全くと言っていいほど使っていない)

両方の映画の背景に二つの緑の柱が見えるのと、全く同じデザインの制服を着ているところは、こだわりといえばこだわりかもしれないが、こだわるところを間違っている。日本版の少女たちの後ろにあるネットは何? ショット全体を暗くして、人物を浮かび上がらせるどころが、埋め込んでしまっているのではないか。台湾版の背景の大勢の生徒たちと、明るく光る地面、左前にぼんやりと据えている木の幹、これらがシネマとグラフィーの「こだわり」だったはずなのに、それは全部無視して、形だけ似せた三流模倣品になっている。

最後にもう一つ。

台湾版を見たとき、大好きだったシーン。なんなのかはわからないけど、なんか書いて火をつけて飛ばす奴を間に挟んで、少年が少女に告白する。

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まずは火をつける前に、なんでもない話をする。

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火をつけると、

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二人の顔がオレンジ色に優しく包まれ(本当に火で照らされているのではなく、照明である)、少年は少女に大好きだと告白する。使っているアイテムの特徴をうまく利用して、感情の変化を照明の色で表現した、素敵なシーンだ。

そしてこちらが日本版。

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火が最初からついている。

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火の明かりは見当たらず、最初から最後までおなじ色で、おなじアングルで、同じ表情。

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そして、台湾版はちゃんと中の火が見えるように、暗い時に撮っているのに対して、日本版は明るすぎて火が全く見えない。

全く同じロケーションで撮られたシーンだが、発揮している力が違いすぎる。もっと細かいことを言うと、橋の手摺りの色が、2011年公開の台湾版の時には白かったが、2018年公開の日本版の時は、ちょっと汚い鼠色になっていて、台湾版で二人の黒い上着が手摺りの白に強調されているに対し、日本版では二人の白いTシャツが汚い背景に埋もれている。ショットが同じだからいいってもんではないのに……

終わりに

この二つの映画を比べてみて分かったことは、映画は形だけにこだわっても、いいものにはならないということ。ほんの小さい、微妙な表情、照明、タイミング、音など、全てのディテールにこだわって、表現すべきことは何か、どうすれば伝わるのか、しっかり理解した上で作らないと、どれだけいい資材でも失敗してしまう。

こういうことを考えていると、また映画が作りたくなる。偉そうに語ったけど、自分で作ろうとすると全然できないんだろうな。映画の持つ表現力の深さを、この二つの作品で思い知らされた気がする。